文学研究院 小椋彩先生
北大道新アカデミー2024前期文系 第4回
5月25日(土)13:00~14:30、リラ冷えの北海道大学札幌キャンパス学術交流会館大講堂で、北大道新アカデミー文系コースが行われました。文系コースの総合テーマは「戦争と平和 人文社会科学の視点から考える」です。第4回の講師を務めるのは、小椋彩先生(北海道大学文学研究院准教授)、講義タイトルは「戦間期の亡命ロシア文学:亡命の「第一の波」の文学を中心に」です。
1914年、第一次世界大戦が始まりロシアも戦場になります。1917年には、ロシアで社会主義革命とそれに伴う内戦が勃発します。革命によって社会主義国家となったロシアでは大量の亡命者が生まれました。これが今回のタイトルにある亡命の「第一の波」にあたります。祖国を離れた人たちの中には、貴族だけではなく、農民、文化人、文学者も多く含まれていました。ヨーロッパの国々もロシアからの亡命者を受け入れます。とりわけ、ワイマール共和国の首都ベルリンは、国際性が高く亡命者に対しても寛容であり、芸術文化に対する包容力の広さや、外貨の価値の相対的な高さといった経済的要因も働き、多くの亡命ロシア人が集まりました。「ロシア文学の首都」とも呼ばれたベルリンでは、ロシア語の新聞や雑誌が多く出版され、多くのロシア文学が生まれました。1930年代、ドイツでヒトラーの政治的影響が高まり、亡命者の中心はベルリンからパリに移動しました。パリは第二次世界大戦が始まりドイツがパリを占領するまで亡命文学の中心地になりました。
「第一の波」の亡命文学の代表者としてウラジーミル・ナボコフがいます。彼が英語で執筆した『ロリータ』は、亡命者から見たアメリカ文化批判の側面があると小椋先生は指摘しました。そして、ナボコフに興味を持った方に向けて、彼のロシア語で執筆された最後のそして最高の小説として『賜物』を紹介しました。
小椋先生は、当時のファッションや音楽の分野に影響を与えたロシアからの亡命者についてもお話しました。例えば、1920年代のパリでは、亡命したロシア貴族の女性がモデルとして活躍しました。私たちがどこかで耳にしたことがある、メリー・ホプキンが歌う『悲しき天使』は、自身も亡命者であるアレクサンドル・ヴェルチンスキーが、亡命ロシア人のコミュニティを巡りながら歌ったロシア歌謡『長い道を』が元になっています。
最後に、小椋先生は、正しい文化が存在するという本質主義的な考え方を導きうる「亡命文学」と「亡命文学以外」を二項対立的に区別することを避け、文学研究を行うことの重要性を指摘しました。
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